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こんばんは。昨夜の続きです。

「相模国の国府はどっちだったのか?海老名か?西湘か?」という疑問は「神奈川県民あるある」ですよね。 

昨日、Wikipediaで相模の由来を調べて記事にしましたが、2つの国府はこういうことなのかな・・・と推測しました。



律令国家に移行し相模国が制定された際、さがむ(相武)としなが(師長)が一宮を巡って争いさがむが勝利、かまくら・みうらは後に相模国に編入されたようです。

つまり、海老名や寒川周辺はさがむの国の中心地であり、勝利して相模国の中心地となりました。そして律令制以降にここに五重塔も建設され、寒川神社は一宮になったようです。

西湘にあった「しなが」の国の国府は、今でも国府津、二宮と西湘地域に所以が残っています。 二宮になったのは一宮になれなかったからでしょうか。

1400年ほど昔は相模国は「しなが」、「さがむ」という2つの国があり、そしてこの争いを静観していた「みうら」の神は後日、「かまける神」と言われ「かまくら」となったのかなと。



【雑記】三浦(みうら)の由来-私説

三浦・鎌倉は当時ヤマトタケル(ヤマト王権)の子孫が治めていたということなので「天皇(すめらみこと)が治める国の神」から「みのら」と当初呼ばれていたと推測します。
それが後日「御浦」と当て字され「みうら」となったのかなと。 

その神(ら)は、この争いの時、鎌倉に住んでいたと。


【雑記】

現在、神奈川県の一宮は寒川神社ですが鎌倉の鶴岡八幡宮も同等扱いされています。
全国的な知名度で言えば鶴岡八幡宮となりますが、鎌倉は現在でも別格です。

面白いなと思うのが、この相模国が制定された際も鎌倉(三浦)は別格?静観?で後日編入されています。
今の鶴岡八幡宮と寒川神社の関係と同じだな。。と思わされます。

また徒然と。


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※  2017.11.24追記
鎌倉
三浦
足柄
高倉
は律令国家以降の際、相武国造と師長国造の争いが由縁の郡名であることを私説してきました。
稲村ガ崎の稲村もこの争いが由来かなと推測します。
つまり師長国を制した相武国が、御浦国を制しようとR134を進軍し、稲村ガ崎で併合を呼びかけたら鎌倉の神(守)が拒否。

否む神(いなむ・ら)
   ↓
稲村(異次元漢字変換)

かと推測します。

ここは足利勢新田義貞軍が鎌倉幕府を倒幕した際の伝承の要地でもあります。
確かここの突破を攻めあぐねた新田義貞が海に剣を投げたところ潮が引いてそこから市中に突撃したところです。